精神の継承

弊社社長の曽祖父、井上保三郎(1868~1938年)は、生涯を高崎と群馬の近代化に捧げ、地域の産業資本家として数々の事業に取り組み、白衣大観音建立をはじめ諸所に確かな成果を実らせました。誠実さを以て人々から信用を得ていった保三郎翁。
株式会社井ノ上は、「只是一誠」の一生を貫いた保三郎翁の精神をしっかりと継承してまいります。

井上保三郎翁像/慈眼院

生涯、只是一誠
地域産業資本家として高崎の近代化に尽くす

明治維新の子

  標高190mの西の丘陵地帯に立つ高さ41.8mの白衣大観音像。60年以上も高崎を代表するシンボルとなっている白衣観音を巨額な私費を投じて建立し、市に寄贈したのが井上保三郎です。1868(明治元)年に高崎市の町民の子として生まれ、生涯を高崎を中心とする群馬地域の近代的発展に固執し、実り豊かな成果を上げた人物です。
 保三郎の父は、1862(文久2)年に起きた御伝馬事件の主犯格として入牢させられた井上平次郎。高崎の三問屋場のひとつである新町は財政負担に苦しみ、高崎の大半を焼失した大火災が起こると事態は悪化し業務再興のため相撲・芝居・飯盛女などの解禁を藩に求めたものの認められず、目安箱への直訴に及び事件に発展しました。
 保三郎はこうした明治維新を前後する高崎の変革期に、地域の中堅リーダーの子として生まれました。

高崎第一小学校高等科の第一期卒業生14人のうちの一人で、卒業後は他家に丁稚奉公に出ることを説得詰めで否定。家の手伝いに励む一方で夜は駅内通町の高崎漢字学院に通いました。
 丁稚から出世し暖簾分けを許され蓄財するという、それまでの古いパターンの市民の在り方を否定したことは、彼の生涯を決定づけるうえで、極めて重大な意味を持ちました。

産業資本家への転身

  保三郎は1884(明治7)年に高崎線が開通すると、東京の魚河岸に行って仕入れた海産物を長野方面に売って大きな利益を上げました。鉄道が貨物の集配を中心とした新しい輸送需要を作り出していくことを見抜き、事業としてやり抜いたところにその成功がありました。
 
 

 しかし、1888(明治21)年には、流通業者として大成しうる可能性を捨て、両毛鉄道桐生―足利間工事を請け負いました。以降、保三郎は近代社会の基盤である鉄道敷設事業、建設業を行う産業資本家へと大きな方向転換を図っていくことになります。

市是に見出した己のなすべきこと

  保三郎と高崎の歩みにとって、1900(明治33)年は画期的な年となりました。高崎に市制が施行され、初代市長に矢島八郎が就任し、保三郎も初代市議会議員に選ばれ、1917(大正6)年まで実質16年間、市議を務めました。1905(明治38)年には、矢島市長が総合計画に当たる市是を発表しました。今日的に見ても模範的な施政方針に、保三郎はこれから自分がなすべきことをはっきり見出し、その実現に向けて全力で取り組みます。

 1910(明治43)年の剣崎浄水場、南尋常小学校、高崎公園の完成、1917(大正6)年の高崎公会堂の建設。昭和に入って駅前凱旋道路のアスファルト舗装や橋梁の永久橋化をもって市是に応えました。その事業の成功は、金もうけ主義などではなく、進んで市是を具現化したところにありました。近代産業資本家井上保三郎の思想は、市是に結晶された市民社会の実現を目標とし原点としていました。

商業都市から近代工業都市へ

 市是の具現化と並んで第二の柱となったのは、兵営でした。高崎歩兵第一五連隊、東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所、宇都宮第一四師団などの軍関連工事を手掛け、保三郎は土木・建築面で「高崎の井上」「関東の井上」を確立しました。当時、保三郎は中央に進出し国策に従って財を成す道はいくらでもあったにもかかわらず、群馬、高崎の近代化、内発的発展のために身命を賭す覚悟を固めていました。

  大正時代が幕を開け、保三郎の冷徹な頭脳には、高崎は伝統的な商業都市から近代工業都市に変質しなければならないという考えがありました。高崎水力電気㈱や高崎瓦斯㈱に関係し、高崎板紙㈱、上毛製粉㈱、龍栄社製糸場を頂点とする30以上の会社の設立、経営に携わることで、高崎の工業化を推し進めました。

観光都市高崎の実現を夢見て

 1929(昭和4)年、保三郎は昭和恐慌の只中で、次なる大きな課題に取り組みます。①高崎歩兵第一五連隊戦没者慰霊供養、②国民思想善導、③観光高崎の建設の三つを目的に掲げ、日頃信仰していた白衣大観音像の建立です。丸2年の歳月と莫大な私財を投じ、1936(昭和11)年、開眼法要を迎えました。しかし保三郎の全計画からすれば、それは始まりにすぎませんでした。高崎の発展のため観音山を県立の大公園にすべきだと考えていたからです。

  保三郎は、市街地を中心とする高崎の商工業都市化につぐ事業は、商工業都市高崎を礎とした観光文化都市高崎の建設であり、自らの社会的責任であると、固く信じていました。

 しかし、保三郎はこの夢を残し、白衣観音建立の2年後の1938(昭和13)年11月17日、市内竜見町の別荘・観水荘で静かに息を引き取りました。満70歳まであと3日でした。

白衣大観音の建立

建立の動機 ー昭和天皇に拝謁ー

  緑の楽園・観音山。保三郎は商工会議所会頭の頃から、いや少年の日から、この観音山を大公園として開発すべきという夢を持ち、それをやり抜くことが観光商工都市・高崎の建設に通じ、自らの社会的責任であると考えていました。
 満州事変勃発後、戦雲急をつげる昭和9年、上毛の野一帯で、大規模な陸軍大演習が行われましたが、その統裁のため群馬、栃木両県に行幸された昭和天皇は、産業奨励という点から、保三郎に対して実業功労者として単独拝謁をお許しになりました。この光栄に感激した保三郎は前述の三つの目的を掲げて、常日頃信仰していた白衣大観音像を即刻建立する意志を固めたのであります。

建立の計画

  白衣大観音像建立の計画は、その数年前から構想されておりました。建立の地点としては、観音山山頂が物色されましたが、「標高190ⅿの観音山頂を切り開き、そこに遠く汽車からも見えるほどの世界最大の観音様が建てられるらしい」という話は人々にまたたく間に広がり、その計画の大きさは市民の関心を集めました。
 昭和9年12月、保三郎は遂に決意しました。伊勢崎市出身の彫刻家、森村酉三氏(日展無鑑査)に原型モデルの製作を依頼、氏は保三郎の計画を快諾。構造物を建立する地盤調査が開始され、その結果、地盤は表面6~7ⅿが関東ローム層、その下が砂利混じりの礫層ということが判明。基礎工事は礫層でもたせるためのベタ基礎と決まりました。白衣大観音の規模も最終決定し、高さ41.8ⅿ、本体は鉄筋コンクリート9階建、外壁は曲面、変形大型ブロック積み、内外装はモルタルとセメント塗り、台座20ⅿ四方、胴廻り48ⅿ、重量5,985tとなりました。
 

3年の歳月と多額の建設費(自費)を投じた白衣大観音は昭和11年10月20日、見事に完成しました。 

山形煙草専売局のさくらんぼ

 明治44年春、保三郎は山形煙草専売局工事を請負いました。22万4千円という工事費は、いまの物価指数に換算すると40億円以上の工事です。しかも、当時では稀に見るレンガ造りでしたから、請負業者はみな尻込みしました。
 保三郎は当初、レンガを東京方面から山形まで運搬しようと考えていました。ところが日数がかさみ、とても採算がとれないことがわかると、「現地調達しかない」と考え、近くの村々を回ってレンガに適した土を捜し歩きました。幸い鉄島村の土がレンガに使えることがわかり、早速土地を買収して窯を築き、レンガ製造を始めました。ところが、しばらくたって土地の農民が騒ぎ出しました。レンガを焼く煙が付近一帯の桑畑に流れ出し、桑の被害が目立ってきたからです。今でいう公害です。
 農民たちはムシロ旗を押し立て、竹ヤリをかついで押しかけ、反対の気勢をあげました。 じっと耐えていた保三郎は、 反対派の代表と会いました。代表の言い分を聞いてから保三郎はキッパリ宣言。

「事業中止には応じられません。なぜならこの事業は永久的なものではないし、レンガを調達しなければ仕事は中止に追い込まれます。桑を傷めたことについてはおわびしますし、弁償もします。さらにレンガ焼きが終わったら、この私の土地に桜桃を植えて、村にそっくり寄付させていただきましょう。私の誠意を汲んでいただきたい。」
 代表たちは、保三郎の毅然とした態度に二の句を告げなかったそうです。この日から農民の反対は静まり、工事は順調に推移しました。保三郎の誠意が通じたのか、弁償要求額は予期していた額よりはるかに少なかったそうです。

 こうした逸話を残して山形煙草製造工場は期日までに立派に竣工しました。保三郎が村に贈った桜桃は、村の特産物に成長し、財政に寄与したとのことです。